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調査研究・コラム

コラム

〈2021/11/30〉

顧問 渡部かなえ(神奈川大学人間科学部教授)

日本と子どもとクリスマス

12月に入り、クリスマス・シーズンがやってきました。感染症の再拡大が起こらないよう細心の注意を払いながら、子どもたちが楽しく過ごすことができるよう、園でもいろいろ考えられていることと思います。
クリスマスを幼児教育の重要な行事の1つとして位置づけたのはフレーベル(Friedrich Wilhelm August Fröbel,1782-1852)です。大人とともにクリスマスを祝うことで祝祭に臨む敬虔な心を育て、クリスマスツリーやロウソクの光、クリスマス・プレゼントを通して、神の恩寵を予感し感謝の気持ちを育みます。
日本にキリスト教が伝えられたのは1549年ですが、江戸時代にキリスト教は厳しく禁じられており、禁制が解かれたのは1873年(明治6年)でした。その翌年(1874年)にアメリカから女性宣教師ドーラ・E・スクーンメーカーが来日して女子小学校(青山学院の源流)を開設し、子どもたちに教育を通して欧米の文化を伝えました。日本の子どもたちのところにもクリスマスツリーやサンタクロースがやってきたのです。
日本のクリスマスが、キリスト教とは関係がない・キリスト教を知らない子どもたちを巻き込んで盛大に祝われることについて批判的な意見もありますが、クリスマスが「キリスト教抜き」「イエス・キリスト無し」になったことには、1899年(明治32年)に発令された教育の場で宗教教育と宗教行事を行うことを禁止した文部省訓令第十二号が大きく影響しています。また、日本はクリスマスを祝祭日としていない国ですが、1927年から1947年まで12月25日は休日でした。大正天皇が崩御された12月25日が大正天皇祭として祭日になったのですが、偶然、クリスマスと重なったのです。意図は全く異なるのですが、クリスマスが祭日(休日)になったことは、日本にクリスマスが定着した主要な要因の1つと考えられています。
1945年、まだ12月25日が休日で、そして終戦後の初めてのクリスマスの日に、アメリカからきた一人の女性が東京の焼け跡で親を探していました。彼女の名はベアテ・シロタ、22歳。父親はユダヤ系ウクライナ人のピアニストで、1929年に来日し、戦時下もずっと日本に留まっていました。10年間、日本で育ち、大学教育を受けるために渡米して、そのまま両親に会えなくなっていたベアテは、進駐軍(GHQ)職員に志願して日本に来たのです。焼け跡で親を探す寂しくて心細く不安なクリスマスを過ごした若い女性ベアテは、その後、日本国憲法の14条や24条などの女性の権利に関わる条項の草案に深く関わりました。日本の女性がやっとまともな公民権を得られる道が拓かれたのです。
キリスト教徒でなくても、キリスト教やイエス・キリスト抜きでも、ツリーの飾りつけなどの準備をみんなと一緒にワクワクしながらやって心待ちにすること、クリスマスという日を愛する家族や友と安心して楽しく過ごせること、食卓を共にして美味しい食事を頂けること、心を込めた贈り物(プレゼント)を貰って嬉しい気持ちになれることを、子ども時代に経験することは、豊かで安定した優しい心を育てていく糧となります。そして、そういう温かい経験と思い出が、大きくなってプレゼントはサンタクロースではなくてママやパパが用意してくれると知った時に、プレゼントをくれる人がいない子や、ごちそうもごはんも食べられない子、クリスマスを寂しい気持ちや不安な思いで過ごしている人達を思い遣る心の育ちにつながっていくからです。

【参考資料】
・フレーベル全集(全5巻), 玉川大学出版部, 1977-1981.
・青山学院女子短期大学70周年Memorial Book, 青山学院女子短期大学, 2021.
・クラウス クラハト, 克美 タテノクラハト, クリスマス―どうやって日本に定着したか, 角川書店, 1999.
・ベアテ シロタ ゴードン, 平岡麿紀子, 1945年のクリスマス 日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝, 朝日新聞出版社, 2016.

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